Roots --あたしが私に還るとき
Roots --あたしが私に還るとき
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契約書は隅まで読んだ。
この仙崎という男をどれだけ信用して良いものか--その疑問は残っていたが、それを確認するだけの勇気は持ち合わせていない。
煮え切らない気持ちのまま1枚目の記入欄に従いペンを進める。
そのあたしに、
「今、銀行印は持ってる?」
仙崎が問うた。
「えっ。いえ、持って来てませんけど」
面食らい、思わず身を起こしてDの方を見遣る。
「やっぱり。お前、言ってなかったのか」
呆れた、といった顔で苦笑いをする仙崎に、
「すんません、すっかり忘れてました」
口の端にいつもの歪んだ笑みを浮かべ、それほどすまなそうには見えない調子で答えるD。
この二人の力関係はどうなっているんだろう、と不思議になる。
「まぁ、いいや。この契約書はいつも郵送でやりとりしてるんでね、僕もDに念押しするの忘れてた」
背もたれに腰を乗せてこちらを向き直り、
「一番後ろの紙、銀行口座と銀行印の申請用紙なんだけど今日は持って帰って。次の時、渡してくれたらいいから」
仙崎が云うのに、
「次、って」
1枚目の記入をほとんど終えていたあたしは、ペンを止め疑問句を零した。
「ああ。次、Dに会う時でも。お前、預かっててくれるだろ」
「そうしますよ」
二人が交わす目配せは嫌な笑みを含むものだった。
あたしとDに身体の関係があることなど、仙崎は当然知っているのだと確信する。
この二人はバイト先での同僚という立場を越えて悪友として認め合いつつ、喰い合っているようだ。
そういう嫌らしい共同体はどこにでも存在する。
見まいと思っても垣間見してしまう、怖いもの見たさ。
寄生虫と宿主みたいな。
その奇妙な親密さを匂わせる空気はゼリィ様の粘りを帯びてあたしを捕らえた。
厭だ。
巻き込まれたくない。
--帰りたい…。
「書けたか?」
ペンの動きが止まったのを見咎めるDの声。
「見せて」
仙崎が手を伸ばす。
左の薬指には白く光るものがあった。
既婚者か。
何故か少し安堵を覚える。
所帯を持ち、それなりに家庭を養っている人間なら少なくともこのDよりは物事に対してマトモな感覚を身につけているだろう。
そう思ったから。
「うん、良いね。この住所は実家?」
書き上がった書類を一瞥した仙崎に尋ねられたが、
「答えなきゃダメですか」
冷静さを得たあたしは平たく問い返した。
「いや、在宅だからね。この住所宛に給料の明細書送る時なんかは配慮するよ」
仙崎はその書類を鞄にしまい終えると、座り直して冷め切ったコーヒーを口に運びながら初めて真っ直ぐこちらを見た。
その目に微かな熱が浮かんだように見えたが--、
その熱がどのような意味を持つとしても、自分には関係ない。
あたしは見なかったことにした。
「さ、じゃあそれ食べたら場所変えよっか」
不意打ちだった。
Dが急に口を開いたのだ。
「はぁ?」
有り得ない。
もうあたしは帰りたい。
--また、云えない。
「場所変えるって、何よ」
やっと出た言葉がそれだ。
「俺も仙崎さんも腹減ってんだよ。どっかこの辺のテキトーな店、案内しろよ」
「なんにも食べてないの?」
呆れて訊くと、
「そうだよ。お前はドーナツ食ってっけど俺らはコーヒーだけで1時間お前を待ってたんだよ」
白々しく恩着せがましい口調。
やられた、と奥歯を噛み合わせる。
「断れないのは判ってるよな」
判ってる。
それはいつものことだ。
しかし、今日は何かが変だ。
「判ってるわよ。あなたたちこの店で異様に浮いてるし。それは判ってんの?」
あたしの言葉に、Dと仙崎は声を合わせて笑った。
憮然とコーヒーを飲みドーナツを流し込むあたしに、身を乗り出して仙崎が囁く。
「みぅちゃんと、もっと話したいんだ。僕がね。仕事のことはもう済んだ。これはみぅちゃんの歓迎会だよ。そういう理由は気に入らない?」
Dにも聞こえよがしな囁きに、あたしは頷くしかなかった。
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