夜の太陽

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　序章

真っ暗な夜が延々と続く。そこに終わりを見出すことは出来ない。皆既日食を起こしたような黒い太陽は濛々とコロナを吐き、真っ黒な空ではほの白い閃光を纏った稲光が走る。
それは龍が駆け巡るかのように。
闇に包まれた世界はどこまでも暗く黒く、そこに終わりはないようだった。世界に下りる濃厚なビロードより更に濃く、果てなどないかのように続く鬱蒼とした黒い森。それに分断されて闇の民と、世界を統一すべく聳える巨大な城は存在する。
森には肉食で凶暴な魔獣と、淡い光を外皮に纏う神秘的な生き物――ドラゴンが生息する。魔獣は人では到底及ばないほどどれも巨大で、ドラゴンなどはその破壊力と凶暴性から疎まれると同時に神格化され、敬われてもいた。
ふわり、と闇に浮かび上がる半透明のシルクのビロード。それは境界などない透明な水に柔らかく広がり、美しい文様を描くようだ。それを纏う肌の白い女性はビロードの文様より美しく、そこに人が通りかかれば誰もが嘆息を吐き出しただろう。
例えようのない美貌の持ち主である女性は、漣も立たない静かな水面につま先を浸して、一度ためらうかのようにその冷たさから引き上げる。今度は静かに足首まで浸すと、ゆっくりとした足取りで湖底を捉えながら、徐々に湖の沖へと進んでいく。
湖は大きくもなく小さくもなく、真っ暗な空と真っ黒な森の梢を在るがままに映し出し。そう、それはタールのように。
時折走る稲光だけが不気味に水を光らせ、よりねっとりしたタールの質感を思わせた。
「その水は毒です」
不意にした野太い声に、膝下まで水に浸かった女性はふと足を止める。
「誰です」
ここは誰も立ち寄らないような、森の深遠にある湖だ。女性は警戒を含んだ目を注意深く周囲へ巡らせ、恐怖心に煽られた震えを隠そうとしながら、そっとビロードを胸元まで引き上げる。
「昨日ここで魔獣が死んだ」
ザザザザ、どこと言わずに梢が震えた。それは何かに慄いたようで、畏れ敬っているような。
女性は頻りに周囲を窺う。声の調子からするに相手は男で――それもかなり不躾な。
梢がより大きく震える。それは強風が梢を折らんとするばかりに。木々がしなり悲鳴を上げて、止まり木を一時的に失ったのだろう鳥型魔獣の大半が、空へ舞い上がって不吉に鳴くのが聞こえた。

ふと視線を止めた一点に男がいた

この湖に入るために一度通った木立の側に、ずっといたような顔をして立っていた。
「無礼者っ」
ザバ、水を鳴らして彼女は後ずさる。半透明のビロードを幾重にも重ね、体を隠すようたくさんの努力をしながら。
女性の水浴を覗きに来るような下賎な男は、全身を世界と同じ黒に包まれていた。足までかかるほどに伸ばされた髪も、長い前髪に隠れがちになる肌も。ローブとも外套ともつかない上衣も、中に纏う衣装も。
厳選された黒に統一された中、燐と燃えるような光を放つ黄金の双眸だけが、やけに印象的な。
「無礼であるとは存じております」
深く深く、男は片膝をついて跪き、頭を垂れながら言った。動揺している自分が愚かしく思えるほど、底のないほど落ち着いて静かな声で。
「私が何者か知っての行為か！　すぐに立ち去れ！」
漣一つなかった湖は、女性の動きに合わせて大小の波が立つ。ゆらゆらと揺れる光は儚く、もう少し強い衝撃を与えれば呆気なく壊れてしまいそうな。
「立ち去れ！」
喉が痛んで血が滲むのではと思うくらい、声を振り絞って叫んだ。これだけ声を荒げたのはいつぶりだろう。男に怯む様子はなく――相手の方が優位だと自覚しているからか、跪いたままの体勢を崩さない。
一見すればただの浮浪者だ。粗野さの際立つ風体に無骨な顔、けれど目の離せない何かを抱いた男は、じっと頭を垂れたまま身動き一つしない。
罵声を浴びたまま反論もせず。
「すぐに……っ？」
足が捉えていた湖底を失ったのは、水が太ももの付け根辺りまで浸食して来た頃。澄んでいるくせに底の見えない湖は、どこから深くなっているのかなど外見では分からない。だからあれだけ注意するよう言われたし、自分でも何度も言い聞かせていたのに。
体が傾いでいく一瞬の時間が、とても長く感じた。足の届かないところには何が潜んでいるか分からない。このまま水の中に引き込まれて、水生の魔獣に食われてしまう可能性もある。
ザバン、と叩きつけられるはずだった水は自分の遥か下で揺れていた。それは穏やかに、けれど不穏に。
力強い腕を感じて彼女が顔を上げると、先程まで湖岸に跪き動かなかった男が、黄金の相貌で彼女の全てを射抜くようにこちらを見ながら、湖に沈むはずだった体を抱き上げているのを知る。
「…あ…」
もう一度確認するように視線を下向ける。湖底がないはずのそこは男が湖に沈むのを拒否するように、或いは男自身が水面に立っているのか、波しぶきが上がるだけ。
礼を述べるのも、無礼者と突き放すことも一瞬にして忘れてしまった女性を、男は無言のままに湖岸へと運んで、そっと地面に下ろす。
「申したはずです、昨日ここで魔獣が死んだと」
強く寄せられた眉間を見た。その下で燐と燃える黄金の相貌はどんな宝玉より美しい。刹那にして胸中の全てと意識を持っていかれるほど、その瞳は澄んで鋭い眼光を放っている。
「貴方は、一体……」
尋ねると、粗野な印象を放つ男は口端をゆるりと持ち上げる微笑みを浮かべ

またたくさんの鳥たちが舞い上がる。どれもこれも物騒な鳴き声を上げながら、四方八方へと飛び回る。

瞬きの後彼女の目の前にいたのは、長く優雅な尾を湖の水面に浸す巨大で漆黒な生き物。鱗にはヒカリゴケのような青白い光を纏い、黄金の双眸は深く優しく。
両翼を広げて天を仰ぐと、空間が壊れてしまうのではないかと思うほどの声が高らかに響いた。
そのこの世のものとは思えない美しさに。
女性が息を呑んで見上げるのを捉えると、漆黒の龍は微かに笑った気がする。

それは世界の全てのような

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