桜の花が赤いのは…
桜の花が赤いのは…
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翔太だってもっとこの子と遊んでいたかったけれど、母親に叱られるのは得策ではない。
「明日?」
確認するように子供が聞いて、翔太は頷く。
「約束だよ、また明日」
分かってくれたのだ、と翔太は感じた。この子にも母親がいるのだろうし、帰るべき場所がある。いつまでもこうして遊んでいると、翔太同様怒られるに違いない。
「…いやだよ」
次の瞬間子供が言った事を、翔太は理解出来なかった。というより、意味を持つはずの言葉が、周囲の雑音と同じように流れ去っていったのだ。
「え?」
翔太がきょとんとしたように瞬く。桜の木をバックに立つ子供は、それまでおぼろげだった顔にはっきりとした表情を浮かべる。
ぞっとする程、凶暴な顔つき。それまで聞いていた声から想像していた顔立ちとはかけ離れた、とても凶暴な顔つき。母親に読んでもらった絵本に出て来る、悪さばかりする鬼のようだ、と翔太は思う。
「明日なんていやだ。キミはボクと遊ぶ」
ざぁあ、と不意に桜の梢が揺れた。生暖かった風はいつの間にか冷たくなって、公園に植林された木々も大きく揺らしていく。突風が翔太の顔に吹き付けて思わず目を閉じれば、次に目を開けた時には、翔太は桜の木の根元に立っていた。
「でも、でもボクのママが…」
背後になった子供を振り向くと、その子は翔太をじっと見据えて、意地悪な笑みを口元に浮かべる。短く切り揃えられた黒い髪が、風もないのに小さく揺れている。
「キミの『まま』なんて関係ない。キミはボクと遊ぶ。明日なんていやだ」
ハラリハラリと、桜色の蝶が翔太の目の前に舞い落ちる。先程の強風で散ってしまったのだろう桜の花びらが、ゆっくりと空気中を漂いながら、ようやく地面に降りたところだ。
「ずっと一人ぼっちで、誰も遊んでくれなかった。だからキミを帰さない。ボクと一緒にここで遊ぶんだ!」
子供が強い語気で叫んだ瞬間、白い着物は霧のように消え去って、子供の姿も消えてしまう。翔太が不安げに視線を彷徨わすと、不意に背後から感じた底冷えのする冷気。
ハッとして振り向いた頃には、もう遅い。人間のものなのに人間にしてはありえないくらいに長い両腕が、翔太の小さな両肩を乱暴に掴む。腕は桜の木の幹から生えるように伸びていて、真冬でも感じた事のない冷気は、その幹から流れ出ている。
「…い…」
乾燥してボコボコになった木の肌に、翔太はさっきの子供の笑みを見たような気がした。意地悪で凶暴で、凶悪な笑み。あの白い着物を着た子供は、人間じゃなかったんだろうか。だとしたらあの子はいったい、何だったというんだ?
「い…やだ。ボク…は、帰らなきゃ」
がっちりと両肩を掴んで放さない両腕を振り払って、底のない寒さに全身を震わせながら、翔太はやっと言葉を吐き出す。声にならない恐怖が喉を痙攣させて、うまく喋る事が出来ない。おいで、おいでと幹の中から誰かが呼んでいる。振り払われて握る対象を失った指は、僅かな間空中を戸惑ったように彷徨った後、限界などないかのように両腕を更に伸ばして、思わずあとずさった翔太の両肩を勝ち取る。
「遊ぼうよ」
ずぶ、と木の肌が揺れた。まるで水面に波紋が広がったようにそこが揺らいで、両腕を恐ろしいくらいに伸ばした白い着物の子供が、どこからか巻き起こる風に袖を揺らしながら、怖いくらいに穏やかな笑みを浮かべて、あどけない誘いを向ける。
先程よりもがっちりと肩を掴まれた翔太は、その腕を振り払う事すら出来ない。
掴まれた部位が冷えて痛む。しっかりと指先が食い込んで、肩が張り裂けてしまいそうだ。
悲鳴を上げたいのに、喉は声を生み出してくれない。「ねえ」
それまで静かに広がっていた子供の笑みが、ふとした変化を見せる。口の両端に薄っすらと切れ込みが走ったかと思うと、皮膚を破いて耳元まで走った口がぱっくりと割れる。
間抜けな悲鳴さえ、零れる事はなかった。
子供は無駄に長い両腕でしっかりと翔太を捕まえたまま、耳元まで裂けた口で穏やかに笑う。もはやそれは彼にとっての穏やかであり、翔太にとっては不気味さでしかない。
逃げようと僅かに身動きしたら、それまで地面に届いていた翔太の爪先は、空中へと持ち上げられた。
「あそぼ」
子供が木の幹の中に溶け込む。冷気の発生源である口でぼそぼそと呟くような、もう一人別の人間が喋っているような低い声のささやきをきっかけに、翔太を空中に捕まえていた両腕がズルズルズルッと木の幹の中に引きずり込まれる。
迫って来る。ボコボコした木の肌が近づいて来る。逃げる事も暴れる事も許されないまま、翔太は無抵抗に待っているしかない。目のふちに浮かんだ涙が、引きずり込まれる反動で冷えきり、潤んでいるはずの目が乾いた。
そっちには行きたくない、ママのところへ帰りたい。どうしてこんな目にあわなくてはならないのか、そもそもあの子はどうして翔太を誘ったのか。いろいろな事を考える間などそうそう与えず、翔太は間もなく木の幹に吸い込まれる。
ズルズル、ズルズルズルズルッ!
掃除機のコードをしまう時のようだ。木の幹に衝突する! と翔太は目を閉じる。
「コラ! そこに入っちゃいかん!」
ぶつかる! と思った瞬間、公園の掃除をしていたらしい掃除夫の剣幕が響いて、薄っすらと目を開けた翔太は、桜の木の根元に呆然と座り込む自分に気付いた。周囲はすっかり暗くなっていて、もう外灯の明かり以外頼りにならない。
夜空にぼんやりと浮かび上がった桜は、何食わぬ顔をしてたたずんでいた。
◇ ◇ ◇ ◇
たった少しの間の出来事が、あんなに長く感じた時はない。たぶんあの子は世間で言う「幽霊」で、昔から人とは違うものが見えていた翔太は、あの子にたまたま誘われてしまっただけなのだ。
今思えば白い着物なんて、時代遅れだ。あの頃はまだ幼かったので、不審に思って疑うという事を知らなかった。
「相変わらずのんびりしてるんだから」
不意に怒ったような声をかけられて、感傷に耽っていた翔太はふと、我に返る。こんな口を聞くのは世の中に一人しかいない。小さい頃から近所に住んでいて、すばらしい確率で小中高一と同じクラスになった、幼なじみの高瀬詩織だ。
「朝の事?」
のんきな返事を返すと、立ち尽くす翔太の左隣で、怒ったように腰へ手を当てていた詩織は、ますますムッとしたように眉を寄せて、とうに自分を追い越した翔太の目をじっと睨み付ける。
「な…んだよ。始業式の日から遅れたからって、睨む事ないだろ」
落ち着いた声で言い返すと、詩織は乱暴な所作で通学カバンから携帯を取り出すと、何やら操作しながらムッとしたままで返事をする。
「あんたは優等生でも、落第寸前な訳でもないけどさ、普通の人とは違うって意識、持ちなさいよね」
幼い頃から一緒だからといって、詩織は少し、翔太の保護者を気取る事がある。確かに翔太は泣き虫で、弱虫だったけれど、今と昔は違う。
「分かってるよ。しーちゃんはいつもそうだ」
携帯を操作していた詩織が、さっきよりも眉を吊り上げて顔を上げる。「しーちゃん」とは小さい頃はいつもそうやって呼んでいたけれど、詩織はいい加減やめるよう言っている。
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