「あのね、それでね、先輩がね…」
放課後の教室には、私と彼女しかいなかった。赤い陽が差し込む教室には彼女の楽しそうな声と、私の相槌、それと遠くで聞こえる野球部員たちの練習の声が響いていた。今日は授業が終わったら一緒にクレープを食べに行こうって約束したのに、彼女はそんなことすっかり忘れているのか、さっきから手鏡を覗いてばかりいる。新発売の苺のクレープを食べたいと言い出したのは彼女の方なのに。
薄くピンクに塗った彼女のリップは、私とお揃い。校則違反にならないくらいの、薄い色付きリップ。肌の白い彼女に、その色はとても似合っていた。
「それでね、先輩に挨拶しちゃった」
さっきから彼女は一つ上の先輩のことばかり。私はその人の事をよく知らない。彼女がたくさん先輩のことを教えてくれるから知った気になっているけれど、私はまだ一度も話した事が無い。
本当にたくさん、彼女から先輩の事を聞いた。初めてあった日のこと。初めて話した日のこと。本当は、どれもよく覚えていない。覚えているのは、先輩の事を話すときの嬉しそうな、幸せそうな彼女の顔。リップよりもピンクの頬、照れ臭そうな目。少し、早口になる。
彼女は、先輩に恋をしている。
「それで…ねえ、ねえってば。聞いてる?」
「うん、聞いてるよ」
「本当に?」
彼女が私の顔を覗き込むように首を動かすと、さらりと綺麗に切りそろえられた彼女の前髪が揺れた。
本当よ、と薄く笑みを浮かべると、少し唇を曲げて彼女は拗ねたような表情を浮かべた。でも私がごめんねと謝ると、許してくれる。私が彼女に甘いように、彼女も私に甘い。もう、とか言いながら、また先輩の事を話し始めた。
本当に、彼女は先輩に恋をしているらしい。私たちはまだ中学一年生。恋なんて、少なくとも私にはまだよくわからない。男の子とどこかにデートに行くよりも彼女と遊んだ方が楽しいと思うし、一つ上の先輩なんてお兄ちゃんみたいなものだ。私には恋なんて、よくわからない。でも、彼女は恋をしている。彼女は中学生になってぐんと大人っぽくなった。
いつでも私たちは一緒にいるのに、なんでも彼女の方が早い。背が伸びるのも、大人の下着を身につけるのも、恋をするのも。このお揃いのリップだって、彼女が買おうと言いだした。彼女とお揃いのものが持てるなんて、すごく嬉しかった。でも、こんなリップ一つで、彼女に追いついたと思うなんて、私は馬鹿だ。本当は何一つ、追いついていなかった。まだ制服の下はキャミソールだけの私は、恋なんてわからない。
「でね、今度一緒に帰りませんかって誘うつもりなの」
「そっか、きっとオッケーもらえるよ」
「それでね、あのクレープ屋さん寄ろうかと思って。苺の新しいの、出たでしょ」
甘いにおいが漂う、青と白のストライプのワゴンはさぞかし二人にお似合いだろう。
嬉しそうに、彼女はまた手鏡を開いた。ポニーテールにしたシュシュは、私の知らない新しいものをつけていた。
「…そう、いいと思うよ」
「なんて誘おうかな。あ、先輩って真面目だから買い食いなんてしないかも」
「きっと大丈夫よ」
それだけ返すと、遠くに聞こえる野球部員たちの練習の声に耳を傾けた。彼女の話の内容なんて半分も頭に入っていない。本当は適当に相槌を打っているだけ。彼女の照れたような笑顔だけが頭から離れない。
恋ってきっと楽しいものなのだろう。他の人のことを考えるだけで悩んだり笑ったり出来るって、素敵だと思う。本当にそう思う。
恋をして、彼女のスカートは少し短くなった。遅刻をする回数は減ったし、廊下を歩く時にきょろきょろする癖がついた。それは全部先輩のせい、先輩のおかげ。
彼女は可愛いし要領もいいから、きっとすぐに先輩と付き合うことになる。そうなればいい。彼女がそうなりたいのなら、私は応援する。私と行く約束をしてたクレープ屋に、先輩と手をつないで行けばいい。私の知らないシュシュを、先輩から贈られればいい。私とお揃いのリップを塗った唇で、先輩とキスをすればいい。
「早く、好きな人出来るといいね」
「…うん」
そうね、本当にそう。私も早く好きな人とクレープ食べに行きたいと思えるようになりたい。そうしたらきっと私も、彼女の知らないところで変わったりするのだろう。新しいシュシュに、制服の下に着た大人の下着。
でも、きっと、恋をしても一緒に帰りたいのも、クレープを食べに行きたいのも、お揃いのリップをしていたいと思うのも、全部彼女だけなのだと、私は思う。
私は暖かい息を吐き出すと、また一つ、彼女の話に相槌を打った。



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