エリザベート
エリザベート・バートリ
血濡れの伯爵夫人
拷問ファイル

エリザベート・バートリ/バートリ・エルベシェット
Elizabeth Bathori
(1560?1614)

『血塗れの伯爵夫人』
次々と若い娘に拷問を繰り返し、血を搾取するために生贄にした。

エリザベートバートリは1560年
ハンガリーのトランシルバニア地方の名家、バートリ家の娘として誕生した。
バートリ家は戦乱で名を馳せた騎士の末裔でその武勇から強者を意味するバトールという言葉から来ているとされている。

エリザベートの少女時代は、名門であるがゆえ、11歳のときからその身を結婚相手にゆだねられたのである。
1575年5月8日、15歳で結婚したエリザベートはハンガリーのニートテ地方にあるチェイテ城に移り住んだ。
後のエリザベートの残虐劇のすべてはここチェイテ城を中心に起きたのだった。

自らの美貌に絶対の自信を持っていたエリザベートだが、4人の子を儲けた後、自身の老いに苛立ちを感じ始めていた。
そんな折、彼女は新人の侍女に髪を梳かせていたが手際が悪いので苛立ち折檻を加えた、その際はめていた指輪が頬をかすり、一滴の血がエリザベートの手に付着したのだ、彼女はその血の部分がつるつるになったと錯覚し以後、凄惨な血の劇が幕を開けた。

エリザベートは侍女たちの行動を全て監視させ失敗を犯した者に厳しいお仕置きを施した。
エリザベートが機嫌のよい日であれば、娘は服を剥ぎ取られ一日中、
全裸で働かされるぐらいで済んだ。
娘は男達の視線に耐えながら黙々と仕事
を続けねばならなかった。
しかし、エリザベートの機嫌の悪い日はというと、金をくすねた娘は赤く焼
けた金貨を手のひらにのせられたり、服をアイロンで焦がしてしまった娘は
アイロンを頬に押しあてられたり、お喋りな娘は口を縫い付けられたりした
という。
彼女の拷問を何例か紹介しよう

『鋼鉄の処女』
この器具は鋼鉄製で人の形を模していた。
機械仕掛けで顔が笑うというこだわりまであった。
人形の胸には宝石の首飾りがはめ込まれており、これがスイッチになっている。
宝石を押すと、人形の両腕が上がり、やがて押さえ込むような格好になる。人形には仕掛けがあり、胸が二つに分かれ、左右に開くようになっている。人形の内部は空洞で、開いた胸の内側には鋭利な刃がついており、また顔の部分に備え付けられた刃は丁度両目に刺さるようになっている。
抱きしめられた犠牲者は、否応無しにその刃に貫かれ、血を絞り取られて絶命する。
絞り取った血は浴槽にため、エリザベートが浸かるのだ。

『鳥籠』
人が入るくらいの鳥籠の内側に、無数の鋭利な刃がついている。
籠の中に娘を入れて、天井から吊り下げて、左右から思い切きり揺さぶる。当然、中にいる娘は刃に貫かれて傷つき血を流す。
その流れ落ちる血を、鳥籠の下でシャワーを浴びるかのように受けるのだ。
エリザベートは、この鳥籠の下で、泣き叫ぶ娘の声を聞きながら恍惚とした表情で血を浴びていたのだという。

『蜂蜜』
あるとき一人の女中が梨を盗もうとして捕まった。
娘は全裸で後ろ手に縛り
あげられ城内を引き廻され中庭まで来ると樅の木に固定された。
下男が縄を引くと体が宙に浮き腕と脚にまわされた縄に全体重がかかりその
ため四肢は湾曲し全身が硬直するほどのつらい吊りに耐えなければならなか
った。
エリザベートは娘の全身に蜂蜜をたっぷりと塗りたくって一晩放置した。
翌日、エリザベートは城中の召使い達に、日中のすさまじい酷暑で気絶状態
にある娘の吊られている木の周りを行進させた。
娘は全身に塗られた蜂蜜のせいで体中に蟻や蝿等の昆虫がたかり正視に
耐えなかったという事だったがその見せしめが済むとようやくエリザベートは半死半生の娘を解放したという。

『氷柱花』
ある真冬のこと、エリザベートは散策の途中、湖のほとりで馬車をとめさせ
ると隣に乗せていた召使いの娘を降ろした。
凍てつく寒風の下、服を剥ぎと
られ泣き叫ぶ娘。しかし両側から男に取り押さえられていて身動きもとれない。
その間、別の下男がつるはしで湖の氷を割って水を桶に汲み、娘の体にかけ
はじめた。氷点下の気温のなかでは水はたちまち肌の上で凍りつき第二、第三の水が氷の層を厚くしていった。
こうして娘は半透明の氷の像に変身したのである。
作業が終わるとエリザベートは馬車から降りて娘に近付き、娘の命がある事を知ると彼女は笑いながら像の回りを一巡して
「これを持って帰って部屋に飾れないなんて残念だわ」
こののち氷の像は積もった雪の上に打ち捨てられたという。

『自身の最後』
1610年12月30日。
エリザベートに裁きが下る時が来た。
エリザベートのいとこであるサルーゾ伯爵に、エリザベート・バートリの逮捕が命じられたのである。
逮捕の理由は不明だ。
一説には生贄の一人が逃げ出して当局に訴えたとも、下級貴族達の娘に手を出したから徒党を組まれて反逆にあったとも。
いずれにせよ、その悪行が当局の耳に入ったは間違いない。
この知らせを聞いたハンガリー王マーチェスは、大喜びでエリザベートを逮捕するべく手配を整えたという。
カトリックであるマーチェスにとって、バルカン一帯に勢力を持つプロテスタントのバートリー家は、目の上のたんこぶだったのだ。
さて、部下を引き連れたサルーゾ伯爵が城で見たものは、目を覆わんばかりの惨劇だった。大広間には血を絞り取られた娘の死体や、全身穴だらけになり息も絶えだえの娘達がいた。
地下牢には、生贄となるべく捕らえられていた娘達が怯えながら身を寄せ合っていた。
また、城の土中から大量の死体が見つかった。
その数は300とも、400とも、600人とも言われる。
いずれにしても、その数は膨大であった。
数々の証拠が集まり、エリザベートは逮捕された。
彼女の身柄はチェイテ城に軟禁状態になった。
そして翌年の1611年1月から2月にかけて貴族院裁判所による裁判がおこなわれた。
この間、エリザベートは法廷にいっさい出廷しなかった。
結果は有罪。彼女に従った者も、有罪の判決を受けた。
しかし、首謀者であるエリザベートは公式には何の罰も受けなかった。
王室と血縁関係にあるエリザベートを簡単には処刑できなかったのだ。
だが、こんな凶行をおこなう人物を野放しにもできない。
エリザベートはチェイテ城に監禁される事になった。
チェイテ城に大工が呼ばれ、彼女を寝室に閉じ込めると入り口や窓を塗りつぶした。
残ったのはわずかな食事の差し入れ口だけ。
血塗れの伯爵夫人は、自分の寝室に閉じ込められたのだった。
そして、3年と半年がすぎた1614年。
エリザベート・バートリは54歳で死亡した。
彼女の死後、チェイテ城は呪われた城として忌み嫌われ、打ち捨てられる。


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